近い諸国から兵力を集めることができた [壬申の乱・近畿地方・歴史]

近江朝廷の大友皇子側は東国は吉備、筑紫に兵力動員を命じる使者を派遣したが、東国の使者は大海人皇子側の部隊に阻まれ吉備と筑紫では現地の総領を動かすことができなかった。

それでも、近い諸国から兵力を集めることができた。

大和では大海人皇子が去ったあと、近江朝が倭京に兵を集めていたが大伴吹負が挙兵してその部隊の指揮権を奪取した。

吹負はこのあと西と北から来襲する近江朝の軍と激戦を繰り広げた。

この方面では近江朝の方が優勢で吹負の軍は度々敗走したが、吹負は繰り返し軍を再結集して敵を撃退した。

やがて紀阿閉麻呂が指揮する美濃からの援軍が到着して吹負の窮境を救った。

近江朝の軍は美濃にも向かったが、指導部の足並みの乱れから前進が滞った。

村国男依らに率いられて直進した大海人皇子側の部隊は7月7日に息長の横河で戦端を開き、以後連戦連勝して進撃を続けた。

7月22日に瀬田橋の戦いで近江朝廷軍が大敗すると、翌7月23日に大友皇子が自決し、乱は収束した。
update:2010年03月07日